15日は「終戦記念日」というが、「敗戦」という意識を希薄にする呼び方だと長い間考えてきた。だから私が書くものは、固有名詞として使う場合を除いては、「敗戦」という表現しか用いていない。この日のA日新聞の「T声人語」が同様のことを書いていた。68年か。敗戦から7年後に生まれた私たちの周りには、まだ戦争の残滓がいたるところにあった。

近所では、父親が戦死し、母親がミシン一つで息子2人をT大にやった話が美談として語られていた。友人の父親は心臓の脇に被弾したため、生命は取り留めたものの手術が出来ずに、死を待つばかりだった。満州からの引揚者が持ち帰ったグローブのような大きな手袋で、ボクシングをして遊んでいた。「教え子を再び戦場に送るな」という言葉が、子ども心に焼き付いている。

娘は津田沼の予備校、家人は「ちょっと」と言って出たきりなので、朝から学生たちの作文の添削をする。これは都市大でマスコミに興味がある学生たちを対象に、私が独自に行なっている「自主講座」の一環で、毎年7〜8人志望者がいるが、大体3ヶ月で挫折する。今年の1年生は、前向きな子どもが多く、教えていて反応が良いだけに、彼らがどこまで長続きするか楽しみだ。『カンカラ作文術』(山崎宗次・光文社カッパ新書=絶版)をコピーしていっしょに送らなければ。

午前10時過ぎから読書の続きをした後、昼のニュースを見ながら冷蔵庫にあったカレーパンと朝の残りのミネストローネで昼ごはん。今朝は食欲がなくてコーヒーだけで、何も食べなかったから、これだけでは少し物足りない。冷蔵庫をガサするとポテトサラダもある。魚肉ソーセージを軽くチンして、マヨネーズをつけていっしょに食べる。まんぞく、まんぞく。コーヒーをもって再び書斎へ。

午後2時半過ぎ自転車に乗って新横浜の日産スタジアム地下にある市民プールに出かけた。6月に風邪を引いてから運動らしい運動をしていない。プールでは、まず「ウオーキング優先」のレーンで歩く。同じレーンは私と他に2人しかいないし、ときどき隣の競泳レーンに移ってくれるので、その間は私一人で泳ぐ。最初の30分ほどは、腰や膝の痛みが泳いでいてもよく分かる。それを過ぎるといつの間にか痛みが消えている。おそらく凝っていた部分が運動でほぐれたからだろう。午後4時過ぎに急に人数が増えてきたので、しばらくして引き上げる。一度に沢山泳ぐとまたガタが出るから、すこしずつだな。もどるとまだ2人とも帰っていないので、大好物のスイカを食べる。

メールがあったので午後6時半過ぎ、娘を迎えにゆくと家人も帰ってきた。私は自転車だったが、3人でタラタラ帰っていると夕焼けが綺麗だった。夕焼けを見たのは本当に久しぶりだ。子供の頃は、入道雲と夕立、それに夕焼けが多かったような気がする。

夕飯を食べながら午後7時半からN協会で放送された『激論ニッポンの平和』を見る。識者として登場した若者2人の言葉が軽く感じられて、嘆息した。H藤一利さんの「日本の海岸線には、原発が56基もあるのだから、これに攻撃を加えられれば日本はおしまいで、防衛力を強化しても無駄だ」との主張は、普段から私が言っていることとまったく同じだった。

H藤さんがこんなに有名になる前、そう『昭和史』(平凡社)を書く前までは、何度か四谷の万作などで飲んだことがある。B春ビジュアル文庫『B級グルメ』シリーズでもご一緒させてもらった。池ノ上に住んでいた頃は、路地一つ挟んだご近所さんだったので、当時小学生だった上2人の娘は、奥さんにもよく可愛がってもらったし、H藤さんからは本をもらっていた。気さくな好いご夫婦という印象のほうが強く、H藤さんがこういう主張をする方とは知らなかった。本読みます。

A日新聞のコラムで写真だけしか拝見したことのなかったD井香苗さんを初めてこの番組で見た。ふ〜む・・・、書くと喋るとでは印象がまったく違うんだなぁ。テレビは難しいよね。会って話せばまた別の感じの人なんだろうけど、まぁ会うことはないわなぁ。朝4時すぎから起きていたので、眠い。(8月16日)