5月11日は娘の中学校での初授業参観だった。「十二支」についての国語の授業だったが、教え方が巧いなぁと感心した。円を書かせて、それを上から12等分し、子・丑・寅・卯・・・のあれを書き込ませていき、その都度、辰・未=巽とか戌・亥=乾などを解説していく。中学1年生の時に、俺もこんなこと習ったのかな?大人になって時代小説を読むうちに自然に覚えたような気がする。
 頭の30分ほど聴いた後、家人に任せて、三崎町のN本大学で開かれている「日本出版学会」の総会に向かった。どうせ昼ご飯を食べるのだからと、国分寺の天麩羅屋さんで、海老、イカ、キス、アナゴ、舞茸、ナスの入ったデラックス天丼を食べる。水道橋に着いた時には本格的に雨が降り出していた。午後1時少し前に会場に到着し、T京経済大学教授で学会長のK井良介先生に挨拶。久しぶりなので長い立ち話となった。弓立社を引き継いだことで、以前からよく知っているU村八潮副会長、いまはS修大学教授だという、彼とも話が弾む。
 午後2時半から始まったシンポジウム『雑誌ジャーナリズムの明日』は、100人以上の盛況だった。やはりパネラーが、B藝春秋のS田真さん、週刊G代のF田康雄さん、S潮45のM重博一さん、それにブロガーのN川淳一郎さんの4人だっただけに関心を呼んだのだろう。
 開口一番、S田さんが、「雑誌はジャーナリズムなんかじゃないんです」と始めたので、学者・研究者たちは、吃驚、びっくり~。反発の質問が出るだろうな・・・と思っていたら、すぐに会長のK井さんと別の一人から、「雑誌は、ジャーナリズムじゃないのか」と語気強く質問と言うか糾弾調のトーンで追及されていた。
 もちろん登壇している編集者たちは、ジャーナリズムとは何かがわかったうえで、少し斜に構えて、高邁なジャーナリズムやジャーナリストとは違って、雑誌はもっと下卑たものだと自嘲気味に言ったのだと思う。日本で「ジャーナリスト」や「ジャーナリズム」という言葉を使うときは、かなりハイレベルな印象が強いので、そうじゃなくてもっと読者に寄り添ったところで仕事をしていると言いたかったのだと思う。
 私も記者と言う言葉は使っても、自分のことを「ジャーナリスト」と書いたことは一度もない。やはりH寿雄さんとかI上彰さんとかが名乗るのは違和感がないけれど、あまり実績がない???と思えるような連中が使うと、陳腐に感じてしまうのは私だけだろうか。その辺の事情を踏まえて、私が背景説明の発言をした。
 3人は、雑誌の存在感をアピールしつつも、「売れない」を連発、「面白いとは言ってくれるのですがね。部数に結びつかなくて・・・」と業界の青息吐息状態を終始説明するシンポジウムになってしまったのは、気の毒だった。
 S田君の「B藝春秋」など、読めば結構面白いのだけれど、若い人が手に取らない。今日のシンポジウムのテーマについて言えば、「雑誌ジャーナリズムに明日はない」だろう。でも、私たちが生きている、つまりいまの60代が生きている間は大丈夫だと思う。
 また電子雑誌に代わるかもしれない。とはいえ、今の若者は、「活字」は読まない。インターネット、インターネットと云うけれど、学生を見ていると興味のあるようなモノしか読まない。というか、見ない。「電子雑誌」になったとしても読まないだろうなというのが、率直な感想だ。だから、授業で活字を読む癖をつけさせていると言っても過言ではない。
 それにしてもブロガーのN川さんの話しは、全く異次元の面白さだった。アナーキーと云うか、突破者というか、終始際立っていて、何でも来いと云った感じで、好感が持てた。例えば、ジャーナリズムに必要な正確さについて説明する際、自らの体験談を引き合いに出して笑わせた。
 「友人の放送作家がBエス11で仕事をしたけれど、原稿料をくれないので、そのことを書きたいと云うんで、ドンドン書かせたら、しばらくして、実は貰っていたことが分かった。奥さんが管理していて、気づかなかったらしいんです」とみんなを惹きつける。
 「早速Bエス11から電話がありまして、あそこには元日刊G代の編集長だったF木さんが専務でいまして、彼から電話が来たんですよ。そこはもう間違いは分かっていますから謝るしかない。このロングヘアーを丸めて、青々とした頭で謝りに行ったんです」ここで大爆笑。
 さらに「このF木さんという人が怖いのは、これを書いたのは誰かとか追及しない、どうするつもりなんだとか訊かないんですよ。あなたはどう思いますかなんですよ。これって逆に凄いですよね」。壇上はみなF木を良く知る編集者ばかりだし、会場も知り合いが結構いるから、終始笑いが漏れていた。後の懇親会で、「F木の兄弟分の小俣です」と挨拶したら、私にまで平身低頭していた。
 彼の話しは、実にリアルで愉しかった。来月号の『S潮45』の特集「反ネット社会」に寄稿しているというので、必ず買うことにする。そう言えば、『S潮45』は貰ったことはあるが、買ったことのない雑誌だ。懇親会では、S田、F田、M重の三氏(M重さんは、初対面だが、鹿児島出身ということで焼酎の「伊佐美」話で仲良くなった)と近況を語り合ったり、親しい編集者の話で盛り上がったり、大いに笑った。
 雨の中、水道橋から都営三田線に乗ったものの「白金高輪」行きだったので、日比谷で千代田線に乗り換え、赤坂の「もゝ」に寄った。何とナントの難破船!!またまた(O妻女子大のI十嵐)浩司君がいるではないか。前回来たときも浩司君が友人と飲みに来ていて、邂逅。毎日来てるのかなと質す?といや久しぶりだと云っていたから、たまたまか、だとすると凄いね、僕たち。
 この日はO妻女子大で教えているW稲田のK井先生と一緒だった。スピノザの研究者というが、私は、スピノザは名前くらいしか知らない。浩司君も同様で、彼はカントについて語り、私は何も知らないけれどヘーゲルについて少し知ったかぶりをした。この前冷戦の終結について授業で話すため、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり 上』(三笠書房)を読み返したばかりだったから、思わず名前が口をついて出てきた。恥ずかしい。こういうときは沈黙は金である。妹さんが、N協会で「おはよう日本」のディレクターだという。名前を聞いた記憶があるので、一緒に昔仕事をしたことがあるのかもしれない。

 ひとりカウンターの端で飲んでいたのは、K西大学のM野由多加教授。元D通の広告学の先生だ。関西文化人も進出する「もゝ」。「もゝ」が面白いのは、まぁ「ほうろく屋」も同じだが、お客さんに好い人が多く、すぐ友達になってしまうところだ。家人曰く「あなたは、『もゝ』に行った翌日は、いつも機嫌が好いわ」と。確かにその通り、好い店だ。でも私は高級洋酒ではなく、角のハイボールしか飲まないので、客としては好い方ではない。(5月14日)