8月下旬に書いたブログの続編。A日新聞夕刊の連載「ジャーナリズム列伝 原寿雄 20回」で、「正鵠を射る」とコメントしたつもりだったが、「正鵠を得る」になっていて、どちらも正しいとはいえ、イメージが違うな、今度N協会の放送文化研究所に行ったらS田さんに聞いてみようと書いた。私が研究所に行った時には、なかなか上手く巡り合えず14日(一昨日)にやっとお会いできた。さっそく返事を戴いたので実況中継?。(S田さんから送られたPDFの添付の方法を私は知らないので、我がゼミのS木誠也さんにお願いしてある。彼のお目覚めの時間次第で、読むことができるようになる。今日中には可能だろう)

(PDFをアップしました。 S木)
正鵠・今様こくご辞書(←PDFはこちら)

今様こくご辞書

正鵠・誤用便覧(←PDFはこちら)

小俣さん、S田です。

「正鵠」の件、A日の担当者がなぜ「正鵠を得る」のほうを正しいと判断したのか、おぼろげながらわかってきました。関連資料をPDFで添付してお送りいたします。いやぁ、それにしても意義深いお題をくださいました。調べていて、ほんとうに楽しかったです。視界が広がりました。個人的な結論としては、いろいろな資料に接してみたうえで、「~得る/射る」のどちらも間違ってはいないし、また「射る」を「得る」に修正するようなレベルのものではないように感じています。

また、今回のお題を発火点として、「的を得た」が「間違い・誤用」であるという説もそもそも疑わしいのではないか、という新たなテーマが出てきました。
小俣さんからお題を頂戴しなかったら、今後も「『的を得た』は間違いに決まってる」と脊髄反射的に思い続けていたところです(今後の調査によっては「やっぱり『的を得た』は間違いなんだね」というように戻ってしまうこともあるかもしれませんが)。
足元を疑ってみることの大切さを、あらためて痛感いたしました。
では!

追伸
今回の件、おそらく添付した資料のような考え方で、「『正鵠を得る』は正しい」→「『正鵠を得る』が正しい」→「『正鵠を射る』は間違っている」というような発想につながったのではないかと想像します。(なお、この本の著者の石山氏は、奥付にあるとおり読売新聞の出身の方です。国語関連のたいへんおもしろい本を何冊も出してらっしゃいます。)ご覧のとおり、石山氏は「『正鵠を射る』は間違っている」というような断定は避けているように読めます。

同じことを表すのにAとBという言い方がある場合、「Aが正しい」ことが「Bが間違っている」ことにつながるのか、という根本的な疑問を、最近よく感じます。
もしかすると、「アメリカは正しい、だからお前たちは間違っている」といったような思想と通底しているのかも?

追加で、「正鵠を射る」のかなり古い実例(明治44年)をお送りします。
この『誤用便覧』は私が国会図書館からデータを入手し、T島さんにもコピーをお渡ししていたものです。T島さんが「前にもらったこの資料に『正鵠を射る』が出てるよ」と教えてくれました。

S田さんは、30代半ばくらいかな、いつも愉しそうに研究している方で、N協会屈指の「用語」の権威だ。この春、母校から「国語学」の博士号を授与された。「教えて」とお願いすると、忙しい時でもしばらくすると必ず回答してくれる。最後に出てくるT島さんは、記者の大先輩で、「用語」の実際のニュースでの使われ方などに、いつも厳しい眼を注いでいる。あいまいな表現には、「一平君、今朝のニュースでこういう言い方をしていたけれど、どこの発表なのかハッキリしないね」と声をかけられる。奄美大島出身とあって、初任地鹿児島の私とは、大変ウマが合う。良く新聞や雑誌にも目を通しておられ「一平君、君の本のこと『新聞研究』にでていたぞ」と教えてくれるばかりか、机の上にコピーまで置いておいてくれる。研究所に入所した時は、お祝いに新橋でご馳走して下さり、大学教授になった時も、とっても喜んでお祝いまでくれた。こういうことって生涯忘れないもんだ。(9月16日am5:43)