昨日は私の一番若い友達が訪ねてきた。青葉区に住む高校3年生のM崎優人君。オープンキャンパスで都市大学に来て、「メディアに関心がある」というので、翌週研究室に遊びに来た子だ。7月の夏休み中に石巻に5日間ボランティアに行った際、あまりの惨状に驚いたものの、最近のメディアは福島ばかりしか報道していない。それっておかしいんじゃないかと疑問に思って聞きに来た。そのとき実際に一定期間のテレビと新聞の報道の仕方をデータを取りながら見てごらんと言っておいたのだが、実際に調べて来た。「家にあったA日新聞の8月5日から2週間の記事で、どれくらいの紙面を福島、宮城、岩手に割いているかを比較してみました」という。ああは言ってもやらない子供が多いのがこのご時世なのに、それだけでもいい奴だと感心する。今度は、なぜ福島に偏重するのかも考えてごらん。いつもなぜ?ホント?といったような問いかけをしながら、新聞やテレビを見ることが大事だよと話す。学生食堂で一緒に昼ご飯を食べた。彼は鶏肉に野菜の甘酢あんかけ、私はカレイの唐揚げに同様のあんかけがのったもので、「美味しいですよね」と喜んでくれた。確かに都市大学横浜キャンパスの学食は美味い。近所の人たちもよく散歩がてらランチを食べに来ている。食べながら「新聞やニュースをよく見るようになった」という。うれしいね。高校生侮れず。来月6日に戸塚にある県立O陽高校に「出前授業」に出かけることになっている。改めてわかりやすく、かつ心に残る授業をしなくてはと思いを新たにする。

 午後から放送文化研究所に「キャンペーン報道」の資料を探しに出かけた。今度の新書に「ネットワークでつくる放射能汚染地図」のドキュメンタリーを「調査報道」として取り上げている。番組を制作したN沢潔さんは、文研の主任研究員なので彼の話を1時間ほど聞いた。震災直後の3月12日に放射能衛生学のK村信三さんに電話して「現地に入って取材しようと思う」と話すと「準備はできている」とすでに支度をしているという。14日にK村さんにも局に来てもらってETV特集のO森プロデューサーと話し合い、翌日からドライバーと4人で現地に入ったそうだ。放射線によっては半減期があるので急ぐ必要がったのと、取材制限が行われる恐れがあるので、ここが勝負時だと思ったそうだ。「あの時点では大きな爆発があると言われていたし、そうなったら最期だからと局の西玄関で若いディレクターたちが『お別れ写真』を撮影してくれたんですよ」と笑う。被曝をしないような防護服だと物々しすぎて、もし一般の人に会ったら警戒されされるので工事の人のような雨合羽姿で現地入りしたという。そのかわりマスクだけは5層の活性炭入りの非常にいいものをつけたそうだ。事故直後の1キロ圏内に入って取材してきただけに、話がリアルで面白かった。

 N沢さんは、私と同じでいつも帽子をかぶっているが、禿ではない。1981年入局でもっぱら教養畑の人だ。2004年だから私より2年早く放送文化研究所に入所しているが、ディレクター時代は、1987年に作ったNHK特集『放射能食糧汚染~チェルノブイリ2年目の秋』を皮切りに、NHKスペシャル『いま原子力を問う』(1989)『化学兵器』(1992)や『科学を人間の手に~高木仁三郎・闘病からのメッセージ』(1999)など沢山のドキュメンタリーを作ってきた。2003年の『東海村臨界事故への道』は記憶に新しい。I波書店やK談社、●HK出版からもたくさんの本も出しているし、『世界』の8月号にも「放射能汚染地図から始まる未来~ポスト・フクシマ取材記」を書いている。N協会は、私のような記者もいたけれど、中には優秀で、行動的で、視点が正しい、問題意識を持った記者やディレクターもたくさんう。批判する人は、十把一絡げで言っているけど。あぁこれから「学生部会議」が昼まである。おとといの教授会は午後3時から6時までだったが、今日はどうかな?(9月15日am9:50)

 と書いてアップして会議室に行ったら人っ子ひとりいない。なぬ?学生支援センターに問い合わせたら、変更になったという。そうか、私の「システムダイアリー」には、4月以前にもらった計画案とその後もらった年間計画との両方を書き込んである。まぁ会議があるのに忘れて行かないより、行って(会議が)なかった方が、なんだか時間が儲かったような?感じがする。夜は国際問題の話を聞きに東京に出て行くので、それまで準備の時間がある。お昼はまた学食だな。(9月15日am10:20)